昭和49年06月19日 朝の御理解
御理解 第67節
「何事もくぎづけではない。信心をめいめいにしておらねば長う続かぬ。」
確かに祈って祈っての信心ですから、どうしても誰の真似しなければならない、こうでなからなければならないということではない。その人のいわばまぁその人の努力とでも申しますかと、信心はしていかないと長う続かない。皆さんのように朝のご祈念にこうやって参って来る人。また月次祭だけにお参りをする人。また月に1回か2回だという人もある。ですからそういう信心がとても貴方達のような真似は出来んと、いった様な事ではやはり長う続かんから、まぁその人その人の生き方で信心はしなければならない。
しなければならないそうしなければまぁ長う続かん。そこでまぁ長う続いておるというだけがおかげではない。何事もくぎづけでないという事なんです。だからそれはねいつまでも同んなじであってはいけないという事なんです。確かにその人その人の努力で信心は進めていく訳ですけれどもね、月参りの人もありゃ月次祭たんびにしか参らないという人もありゃ、お日参りの人もありゃね、日には二へんづつも三べんづつもお参りする人もある訳のですから。
だからねそんな真似は出来んと、またものが広がらんと言うならとても長くは続かない。自分ねまぁ力量力量においての信心でやってるという訳なんです。けれどもまぁいつまでもそれで良いというのでない。信心はくぎづけではないとね、くぎづけではないことが動いておらなければいけない。一歩づつでもなら前進していかなければいけないということ。この辺のところをね、もう一生ね金光様の信心はやめりゃあせん。いや長う続いておる。けれどもまぁ月に1回か2回かお参りをする。
それをなら一生続けるといったような人達もやっぱあるこたぁあるです。そりゃもうなんと言うですかね厳格にいうと、まぁならお月次祭ならお月次祭だけは何十年なら何十年の信心を、いわばいうなら節度を守った信心が出来なさっておられますけれども、それではいけん。それじゃこのの時期を待っておるようなもんです。少しは増しな一歩づつでもね、進んでいく信心を頂かなければならない。長う続かぬというけれども、長う続くということがただ続いただけではいけない。
長う続いていくうちにくぎづけではないのですから、それはこう進んでいかなければいけない。昨日ちょうど午後の奉仕の時にある方がお参りなさった。兄さん達夫婦がお参りする事を非常に嫌う。かというて月のうち2回から3回、ようやく参って来る位の事なんですけれども。兄さん達があんまり良い顔しない。だからなかなかお参りがし難いとこういう。もう十日位前でしょうかお参りをしてきた時に、私その方にとにかくあの兄さんが、兄嫁がとずっと思うておるのではなくて。
兄さんが兄嫁さんが喜びなさる事ばっかり考えたらどうですか。いうならば人が喜ぶことばっかりを考えたらいいですよ信心とは。心にそれを思うということ。いうなら『目は口ほどに物をいい』ということがあるけれども、心は口以上に物をいうもんだと。兄さんが喜ぶ様な事を思う、兄嫁さんが喜ぶような事をいつも心がけておる。今までは本当に兄は分からんから、本当に兄嫁がいつもその親を例えば大事にしない。自分の親を。そういうところばっかりを見ておる。
だから「今日からはね、兄さんが喜びなさる様な事を一丁思いなさい。兄嫁さんが喜びなさる様な事だけを思いなさい。思い続けなさい。それこそ目は口ほどに物をいうだけではない。心は口でいうよりも通じるものなんです」。そういう様な話をさして頂きました。そしたらね最近兄達夫婦が非常に良ういうてくれる様になった。良うしてくれる様になった。今迄は信心を嫌いよった兄達夫婦が、昨日はお月次祭である事を忘れておった。勿論晩に参って来て「今日はお月次祭だから」といっていわば参って来た。
そしたら兄嫁さんが「今日はあなた合楽のお月次祭じゃないですか」っていう。もう今迄嘗てない事でしたとこういうのです。あぁほんなこつといいながら参って来ようというて、今日は参って来ましたとこういうのです。だからその様にしてし難かった信心をし良い様になるということはです、神様が「もう今までの様な事ではいけないぞ」と、確かにこう修行にしておられる様なものを感じるです。今までは月次祭なら月次祭、しかもそのお祭りにお参りも出来んから昼お参りをして来る。
兄嫁の顔色ばっかり見ていて、兄さんの顔色ばっかり見てからお参りをして、お参りするというと機嫌が悪い。それでもやはりまぁおしてお参りして来よった。まぁそれがいうならば悩みの種であった。ところが兄の事は姉さんの事を喜ばれるようにという思いに心がけさせて頂くようになったら、まだ十日ばっかりの事なんですね。最近とても兄が兄嫁がようしてくれる様になったとこういう。信心ちゃねもう人の気だけをみらずにね、人が喜ぶ様な、本当に人が喜びなさる様な事ばっかりを思い続けたらいいのですよ。
それと口ではいわんけれども、心で相手をちとモヤモヤしなさる風な事ばっかり思いよるから、それこそ心は口以上のものをいう事成す事の様に、何とはなしにそこにあたりそこにイライラする様なものがある。だからその人がお参りをするという時にゃ、「またお参りなさるの」といった様な、いうならば認否人と言った様な事やらば聞かなきゃならん。ところがそれとは反対に兄さんが喜ぶように、兄さんが喜ぶ様な事ばかりを思う事に心がけさせて頂いておったら。
最近兄達夫婦が大変にようしてくれる様になったという。昨日も昨日でお月次祭を忘れてしもうとりましたら、兄嫁の方が「今日は合楽の月次祭じゃないですか。」というてくれた。本当またコロッと忘れておった。「ほんなこつ」というて、まぁお参りをして来たというのです。そこに今日私が皆さんに聞いて頂きたい事はね、いつぅもほんならそげんな事思いよったらです、月に4回なんてん決めずにです、お参りがしようなったら、そんなら4回参ったか、5回か6回かにさせて頂く。
させて下さろうとする神様の働きがそこに感じられるでしょう。信心はいうならば何事もくぎづけではないように信心も同じこと。だからそういう時に、私共がふっといわゆる悟らにゃいけん。でなら「神様がお日参りを求めてござるな」「朝参りでもさせて下さろうという働きがありよるな」というふうに気付いて、そこからですお互いが信心を一歩一歩本当な方へ本当な方へと、いうなら本当の意味においての信心の徳を受けられることのために、精進させて貰わにゃ。
ただ月4回参りが一生続いておりますというだけではおかしい。まぁ皆さんが毎朝参って見えよるけん、また昼も参らんならん夜も参らんならんという、その参るというそのことではないのです。まぁいうならお日参りでもなさっている方達は、どう工夫していったらよいかという事はですね、そこはもう心の問題になってくると思うのです。心行なのです。昨日ある教会の先生がお参りをしてみえた。おかげでこの頃御結界奉仕をさせて頂くことが段々まぁ有り難うなって来た。
もう今まではもう御結界奉仕がそれこそ個人でお参りして来る。お賽銭のジャラジャランという音がすると、裏から出て来るというような先生が、この頃は御結界に奉仕をさせて貰う様になった事がです、段々楽しゅうなって来た有り難うなって来た。ことに先生のお話を聞かせて頂いて、もう例えば御結界という所は、ちょっと例えば私共私がお手洗いならお手洗いに立たせて頂く場合でも、その間に「ちょっと座っといてくれんの」というて、誰かをそこを座らしておかなければ私は出来ん。
だからここはもういうならば、御結界は朝の五時から夜の九時までは、それこそ僅かの時間でも御結界をはずすということがない。というような話を聞かせて頂いて、自分も段々精進させて頂くようになった。「そりゃ有り難いことですな。」というて、私もお礼申して頂いておりましたら、御結果でやっぱりこう筆でね、お届けをなさっておられる。お帳面にこう清書される。その持っておられる筆がねもうこんなに大きい。大きな筆でこう持っておられるところを頂いた。
それで私が思いました。あのこれからはひとつ、先生その筆に吊り合うような人間にならせて頂きなさいよ。大きゅうならせて頂きなさいよと。私は昨日からとにかく合楽を本当の極楽の手本、これが天国の素晴らしさというように、もう本当に信心させてもろうて、極楽行きを目指す、極楽の見本のようなものを合楽につくるというような意味の事を、繰り返し繰り返し今日は頂いておるが、そういうおかげを例えばやっぱり願いとしての信心でなからにゃならん。
だから暑いなら冷房もさせて貰い、寒いなら暖房装置の出来る様な、暑いなら後ろに特に今私は特に汗かきですから、扇風機を今朝の様な時にゃだから実際はなら勿体無いのです。だから勿体無いからというてそれを止めたり、暖房設備やら冷房設備をしないというのではなくて、その勿体無いおかげに相応しい信心をさせて頂けという事なんです。これが私の生き方ですね。いわゆる極楽を目指す様な生き方なんです。はぁ扇風機やら勿体無いから、暑いで汗をブルブルかきながら、これは極楽じゃありませんよね。
例えば始末倹約をする事だけが信心のような思い方をしている。だから本当に勿体無いなと思うたらです、勿体無い例えば食べ物でもそうです。こんな美味しい物こんな立派な物、こんな高い物やらは食べちゃ勿体無いから、いうならばもっとお粗末な値段の安いものを食べると、いう様な生き方は極楽行きの生き方ではない。それをいわばわざわざ求めて食べるという事では勿論いけませんけれども、与えられた物ならばです、扇風機なら扇風機を与えられておるのだから、使う事が極楽いきの生き方なんです。
自分というものを身を苦しめる事だけが信心の様に思うておる。そういう信心では今日の御理解でいう様に長う続かんのである。そういうのはねもういよいよ合楽は極楽行きの、いうならば稽古させて頂くのだから、そこに扇風機を与えられたら暑いなら扇風機をかける。それこそ勿体無い様な着物を頂いたならばあぁ勿体無いというて、やはりものにでも間違いなしという事はない。その勿体無い様なものを着せて頂いて、その着物に相応いだけの信心に、育っていかなければならない事に心を留める事である。
こういう大きな葡萄を頂いておるのであるから、その房を持てるのに不自然でないような大きな人物にならせて頂く事の精進をなされて、いうならそういう大きな人物になるためには、どういう信心をさせて頂いたら良いかという事を、お伺いされましたから話した事でしたけれども。長う続くためにもです、私共はね楽をしようとは思わない。けれども神様がさせて下さろうとするならば、「あぁ有難い勿体無い。」で頂かなきゃいかん。だから今度は勿体無いというならです、勿体無いのですからその勿体無いものが頂けれる様に、いわば私にならせて頂く精進が必要だという事です。
例えば十万もする着物を頂いたというか、「はぁ勿体無うして着られん」というのじゃなくて、頂いたのだからそれを着せて頂いて、その着物に相応しいだけの人物にならせて頂こうという精進をしろというのですね。今日今日私が聞いて頂きたいお話の結論はそこなんです。だから楽な方へ楽な方へとおかげがいくのですから、そのこういう楽をさせて頂いている人に相応しい私になるところの精進をさせて頂く。それが私はくぎづけではないから、段いうなら生活でもです。
お粥さん食べよったが麦のご飯が食べられるようになり、白いご飯が食べられるようになり、これは勿体無いから麦のご飯を食べるてんなんてんちゅう事はいらん。与えられたならば与えられたものを、勿体無いという心で頂かせてもらう。だから今白いご飯が食べられるに、相応しい私に進んでいこうとこういうのです。十万の着物でもね、日頃から着ておれれるような私になろう。ただそこんところをですね、それをいかにもです、自分の信心自分の力で得たような思いがです、それを当たり前のようにして聞こえたり、着たりしておるという事はおかしい。慢心と。
それではお気付けを又頂く。ですからどういう例えば良い大きなお家に住まわせて頂いておるならばです。その良い家に住まわせて頂けるに相応しい、私にならせてもらう修行を心がけさせて頂いたら、有り難いですねという事です。御結界に奉仕する事が段々有り難うなってきた。そこでまぁ段々お参りが多くなるようなおかげを頂かれたならば、自然が楽が出来る様になる。そしたらねそれこそ勿体無い自分のような位な信心に、こうおかげを頂いて勿体無いとこう思う。
んならその勿体無いおかげが頂けるに相応しい私になる精進をせよという事。ですからもう一足飛びにポコッと得るのではなくて、もう一つひとつこの様にして信心を進めていく。月に4回しか参らなかった人がです、それでもお参りする時に兄さん達夫婦に気兼ねしながら参ってきよったのがです、兄さん達がより心の状態が変わってきたら、兄さん達がようしてくれるようになった。だけじゃなくて月次祭を忘れとったら、「今日はあなた合楽の月次祭じゃないですか」というてくれる様になった。
お参りがしようなった。だからそんならいつまでもそげな4でよい事はない。お参りがしようなったらならば、5回参りゃ、6回参るという様にしていくという事がです、くぎ付けではないという事。又はそういう生き方だったら一歩一歩ですから、長う続いてしかも続いていくに従って、本当の方へ本当の方へと進んでいくという事。それが私が今お月次祭で申しましたように、本当にもういう意味においてのいうならば、これが極楽という様なおかげを目指させてもらうという事。
ためにはやはり信心が無ければ、この世の極楽など頂かれんでしょうが。信心は確かに銘々にしていかなければならない。いうなら自分だけがして、それはやっていかなければならんけれどもです、そのいうなら枠なら枠として自分の力というものをです、少しずつ大きく広めていくところのおかげを頂きながら、長う続いていくというのでなからなければ楽しみがない。そういう私はおかげを頂いてもらいたいと思うのです。
何事もくぎづけではない、信心は銘々にしておらねば長う続かぬ。なら長う続いただけではそれはつまりません。そこで神様がです次の信心を言い聞かせて下さろうとする働きがある。その働きに乗って次の信心に進んでいく。そういうて皆さんのように、毎朝朝の御祈念にお参りするという程しのですから、ほんなら昼も参らんならんごつなる。夜も参らんならんごとなるというのではなくてです、そうじゃない。
そこまでの信心が進んでいったら、後は心行、後は心の行。そこには必ず有り難い勿体無い、本当に身に余るようなおかげが頂けて来る様になるから。そういうおかげを身に付けてのです、頂くにつけてもです、そのおかげを頂けれるのに相応しい私になろうという信心の修行が出来ていくとすると、楽しく信心が進められていく。信心というのはいかにも厳しいね。今日でも勿体無いから食べん。
人があげたとは普通に着るとじゃ勿体無いから着らん、てんなんてんていう様な事は。私は今、私がいう合楽の信心、いわゆる本当の意味においての、極楽行きの稽古という事にはならない。楽な方へ楽な方へとおかげ頂く。その楽のおかげが頂けれるに相応しい「私になる信心修行こそ、長う続くというだけではなくて、長う続いていきよるうちにです、いうなら完璧な信心へと進んでいく事が出来るという風に思うですね。
どうぞ。